ふぃまの風~島のキオクとキロク~      来間島のはなし

NPO法人来間島大学まなびやーのブログです。
来間島は沖縄県・宮古島と橋で繋がる架橋離島です。
昔ながらの伝承や神事、豊かな自然が残る、のどかで美しい離島です。
来間島の古老らから聞いた話や、島の伝統や文化、島おこしの話を、
当法人理事の砂川が綴ります。

来間島の古老から聞いた話

去る10月13日、来間小学校・来間部落会合同運動会が盛大に行われました!

今年のスローガンは、心一つ輝く笑顔来間島

来間島では、来間小学校と地域が合同で運動会が行われます。

ちびっこたちが参加して行われる競争から始まり、
集落を東と西に分けての対決は、100m競争やリレー、
そして来間島の名物競技縄なえリレーなどで争われます。

また、来間小学校児童らによるエイサーの演舞もあり、
島の人たちと子どもたちの成長を共有する貴重な時間でもあります。


東西対抗100メートルリレー

白熱!縄なえリレー

緑の運動場で繰り広げられる競技の数々、
0歳児からお年寄りまで参加できる、
そして時には観光客の方まで参加することもあるような、
誰もが参加して笑顔になれるような運動会。

そんな運動会の、今から60年ほど前の話です。
お話ししてくださったのは、来間島のKさん、男性です。

大盛り上がりの玉入れ

運動会と言えばね、昔から「首が痛くなる運動会」ってね。

なんで?って、なんでってねえ。

ほら、サシバ(渡り鳥・アカハラダカ)の時期じゃないか。

それが飛んでいるんだよ。

ああ、取りに行きたいなあ、って上ばかり見上げてね。

授業中だのにさ、運動会の練習をしてる時に。

だけど、先生も叱れんよ。

先生だって上を見上げているのにな。

入場行進

島人は、サシバが大好きです。

鳥の格好良さもそうですが、
秋になると必ず渡り来る友達のような存在でもありながら、
昔は、島民の貴重な食糧でもあり、
金銭を得るための糧でもありました。

だから、
運動会の練習時にサシバを見ると、
気持はもうそれどころではなくなってしまうのです。


サシバはいないかなあ?



当初、運動会は9月30日の予定でしたが、
県知事選と重なって29日なり、
そしたら次は台風が来て延期となり、
10月13日の開催となりました。

まさに、サシバの渡りの季節での開催となりました。

昨日、一昨日と、見事な鷹柱が見えていますね。

首が痛くなるほど、見上げては、
いられなかったけど、
サシバの季節はワクワクしますね。





来間島の古老から聞いた話



6月23日、今日は慰霊の日です。

平和への願いを思いながら、今日も記します。

来間島の空


それらは恋仲であったさあよ。

僕は見ていたからね、子ども心にさ

あそこの姉さんがあっちの家に通っていくのをさ

だけど、戦争で兵隊に決まって諦めたんだよ

でも、ばあさんは(=兵隊に行った人の母)待っていたよ


だけど、死んだと来たんだが、信じなかったよ

ばあさんが信じようとしなくて、
じゃあ占ってみようということになったさ

小石を糸で吊るして、写真の顔の中心部にかざして、
小石が回れば生きている、
立てに触れれば死んでいる。

何回やっても回ってね、円を描いて

だけど、おばあは諦めずに待っていたよ


パチャ階段より


まだ私は島に来たばかりのころ。
あるおばあが突然、戦争体験を語り始めました。

出兵前に島中の御嶽をぜんぶ回ったこと、
その中には恋人同士がいたこと。


何故、急におばあがそんな話をしだしたか、
突然とばっくりと開く傷口、
どうしていいか分からず、、
何も言えずで、
あの時から私はずっと立ち尽くしたままのような気がします。

今でも忘れられない出来事です。




来間島の古老から聞いた話



市内中心地にあるとある商店。

レジにいつもちょこんと座っているおじいは95歳

フィリピンでの戦争体験をお話しくださいました。



市内のとある商店

二十歳で終戦して、3年して帰ってきたよ
最初はオキナワジマにおってから、フィリピンに行ったよ
それで生きて帰ってきた

フィリピンには最後までいたよ、

私なんかは上におったから。



フィリピンで、
後ろの山があったから、逃げろと、山に登ったんだが、
残念に思う

爆弾が落ちてくるからと知らされて逃げたんだよ


一人、もうこれが最後って思ったんだろうね

和装に着替えたんだよ

その人の奥さんがさ。
向こうが安全と思って行っていたんじゃなかな

黄色でピカピカしていたよ、綺麗であったさ

持ってきていたんだな、フィリピンまで

箪笥の一番下から出して、着て逃げたよ

もう最後って思ったんだな

今でも忘れられんさ

可哀そうだったよ

小さい畦道を行って、
その時ど~んと音がしてみたら、
爆弾が落ちて、
首をびやっと切られていて

あがい、可哀そう

山につく前に死んでしまったよ

あれが忘れられない

だから、戦争はダメだって

商店自慢の商品

おじいは、戦争ご終わって3年目で帰ったと言います。

その頃を「配給時代」と言っていました。

会社勤めをし、そこではモチ粉やメリケン粉を粉にする仕事をしていたそうで、
そのノウハウを生かし、10年後に独立し、お店を始めたそうです。

いつもお店にお邪魔すると、ニコニコと迎えてくださるおじいの壮絶な体験に心が痛みます。

明日は6月23日
慰霊の日です。













来間島の古老から聞いた話


今週末、6月23日は慰霊の日です。

来間島の古老らから聞いた戦争体験を
ここに記します。



ガマ近くに咲いていたサクララン



ガマの中にいたんだけど、火が出ていると言われて
心配になって出てみたよ

そしたら家畜小屋が燃えていて。
豚や牛が火災で殺されたよ
大人たちが我先にと狙っていたよ

そういうことがあったよ。
またしばらくしてまたあったよ。

運動会にしか卵は食べられないような時代だから

来間小学校90周年誌より



グラマンは低空飛行機ができたんだよ
だけど、グラマンは怖くはなかった。
怖さを超えていた

弟をおんぶして、あれは大きな子供だったからよ
「うむっし、うむっし」と頭をばたつかせて
姉さんと陸軍のガマに逃げたよ

艦砲射撃が一番恐ろしい

米軍の飛行機は怖くはないよ

ツフサガアブ

語り手は80代男性です。

第一回目に、紹介したKさんの弟になります。

2018/06/03
Kおばあの戦争体験はこちらから






来間島の伝統行事



去る6月17日、旧暦の5月4日、
来間島では海神祭(ハーリー)が盛大に執り行われました!

海神祭2017


来間島のハーリーは午後3時からとの~んびりモードです。

来間小学校の児童たちによるエイサーの演舞で幕開けし、

来間小学校児童によるエイサー


役員たちによるウガンバーリー
来間小学校の児童と先生らの体験ハーリー
それからレースがあり、
スイカ割りがあり、
と子どもからお年寄りまで、
みんなで和気あいあいと過ごします。

スイカ割り



当法人理事の砂川も、来間婦人会チームで出場し、
大健闘の第二位!!でした!!!

ハーリーが終われば梅雨明けと言われています。

夏はもうそこまで来ていますね!

来間婦人会チーム!




宜しければ、こちらもご覧ください。

あんち~かんち~に連載してた頃の記事、2010年のハーリーです



来間島にはこんな行事もあります。

ムシバライウガン
2018/04/17
今年4月のムシバライウガンの記録


ヤーマスプナカ
2017/12/30
昨年のヤーマスプナカの記録


カンジャウガン
2017/12/26
昨年のカンジャウガンの記録



潮が引いてました

来間島探偵団



当法人が運営する「サーターアンダーギーとみきの店 んきゃぎさまち」での出来事。

お買い物にいらした60代の女性が言った。

「今日はかねひでがポークが安いから~。
 今から行くさあ」と。

今日はポークが安いよ!

離れて暮らす家族に送る食材を公設市場に買いに来ていたようで、
(有難いことに、うちのサーターアンダギーも)

女性客はポークが特売になる日を待っていたそうで、
ここ数日チラシをチェックし、今日がまさにばんずと、
買い物に行き、配送となったようです。


そう。
沖縄県民で、離れて暮らす家族がいる者が、
新聞の折り込み広告などで、何気にチェックしているのがポーク缶の値段ではないでしょうか?


沖縄料理には欠かせない、故郷の味であるポーク、
だけど、内地で買うと案外高い。

だから、本土で暮らす子や孫から頼まれる。

と言うわけのようです。

朝のチラシのチェックは欠かせません


でも、ポーク缶って、まあまあな確率で安売りされてません?

と聞くと、女性客曰く、


「うちはさ、かなら~ずチューリップだわけ」



なるほど、ポーク缶ならどれでも良いってわけじゃないんですね。

そう言えば、近所のおばあは必ずスパムだった。
だから、スパムの安売りの日は買い出しを頼まれることがよくある。
名古屋で暮らす娘家族は、必ずスパムを指定してくると言ってたっけな。

朝の公設市場


そして、ふと思い出したのが2001年の出来事。

私は知人からある頼みごとをされた。

(ここからが本題です。)

それは、3匹の子豚の絵が描かれたポーク缶のポークが食べたい、
というものだった。

知人は沖縄出身の男性から、
ポークは色んなメーカーのがあるけど、
3匹の子豚の絵が描かれたポーク缶が一番美味しい、
何が美味しいかと言うと、油が違う、
と聞いたそうで、
是非、そのポーク缶が食べてみたいと言うのだ。


何故、知人が私にそんな頼みごとをしたかと言うと、
当時、夫は遠距離恋愛中で、
つまりは私が行ったついでに買ってくるか、
或いは夫に送ってもらえないか、ということであった。


今日のお弁当はちゃんぽん

で、確か、夫に頼んだような?いや?違う、どうしたんだっけ?
と、思い出せない。


「ねえ、おばさん、昔さ、三匹の子豚のポーク缶って」

「ああ、あれももう今はないさ」


えええ??そうなの??

あの時、つまり2001年の春。
私は知人から頼まれた3匹の子豚の絵が描かれたポーク缶を買って知人に渡すことが出来たのだろうか??

自分の記憶力の崩壊っぷりに驚かされるが、
それよりなにより、3匹の子豚の絵が描かれたポーク缶、
お客様の言う通り、もうないのか?


と言うわけで、はい。

久々の来間島探偵団の出動です。

以下の案件もまだまだ未解決ですが。

2018/04/23
トウフマミってなに?違う種類の豆ですか?



2018/04/18
旧暦3月3日に欠かせない食べ物は?各地域の話が聞きたい!







2018/03/03
こちらもまだまだリサーチの必要あり





3匹の子豚の絵が描かれたポーク缶を探せ!!

情報を待っています!







来間島の古老から聞いた話



昨日に引き続き、島の古老らから聞いた戦争体験を書き起こします。

語り手 Mおじい 男性 80代
から頂いたお手紙より

Mおじいからの手紙


おじいは、佐藤と言う者と親交があった。

戦時中、子供達は赤道(アカンツ)と次男家(ジナンヤー)の四路に丸い穴を掘っていた兵隊の中に、
小柄の宮田という名の兵隊がいた。

その兵隊が子供達が集まるといつもうたう歌があった。

スッチョイ スッチョイ スッチョイな~
スッチョイ バケツが十三銭
安いと思ったら 底抜けジャ
スッチョイ スッチョイ

子供達はこのうたをおぼえ、一緒に歌っていた。

子供達の集まるのはいつも

理由は次男家のバンツギーのミー(桑の実)。次男屋のおかあはカイコを養っていて、
桑の木が屋敷いっぱいに植えていた。

子供達は桑の実をほおばっていた。

(手紙の原文まま、一部を抜粋)

今でも島の子は桑の実が好きです

島にいた兵隊のことを覚えていますか?
という問いに関して、返事をくれました。

スッチョイ スッチョイは、どんな歌だったのでしょうか?

島の子たちは、この歌を笑いながら歌っていたように思います。
この歌を歌う時だけは、その一時は、楽しい気持ちになれたような気がするのです。



来間島の古老から聞いた話



昨日に引き続き、島の古老らから聞いた戦争体験を書き起こします。

語り手 Mおじい 男性 80代
から頂いたお手紙より

Mおじいからの手紙


おじいは、佐藤と言う者と親交があった。

戦時中、子供達は赤道(アカンツ)と次男家(ジナンヤー)の四路に丸い穴を掘っていた兵隊の中に、
小柄の宮田という名の兵隊がいた。

その兵隊が子供達が集まるといつもうたう歌があった。

スッチョイ スッチョイ スッチョイな~
スッチョイ バケツが十三銭
安いと思ったら 底抜けジャ
スッチョイ スッチョイ

子供達はこのうたをおぼえ、一緒に歌っていた。

子供達の集まるのはいつも

理由は次男家のバンツギーのミー(桑の実)。次男屋のおかあはカイコを養っていて、
桑の木が屋敷いっぱいに植えていた。

子供達は桑の実をほおばっていた。

(手紙の原文まま、一部を抜粋)

今でも島の子は桑の実が好きです

島にいた兵隊のことを覚えていますか?
という問いに関して、返事をくれました。

スッチョイ スッチョイは、どんな歌だったのでしょうか?

島の子たちは、この歌を笑いながら歌っていたように思います。
この歌を歌う時だけは、その一時は、楽しい気持ちになれたような気がするのです。




6月ですね。

慰霊の日も近いので、島の古老らに聞いた戦争体験談を記していきます。

今日は、2015年6月22日に当法人のfacebookページにアップさせてもらったものを
こちらで改めて記録として残します。


聞き書き Kさん 82歳(2015年現在) 当時は小学6年生でした。

Kおばあ




勉強なんかできないさ。

なんにもやらん。


山砲の陣、と言って大砲を打つ場所を作るのに、
タバコの乾燥場があるでしょ?あそこが松林だったから、
こんなに大きな松の木を切り倒して、生徒みんなで運んだよ。
きつかったよ。

また、アダンを編んで、木の葉っぱをつけてさ。
学校が赤瓦でしょ、偽装網、とよ、学校の屋根にかぶすさな。
ルーズベルト、蒋介石、チャーチルの人形を作って、
槍で刺す練習もしたよ。

石垣を崩して道に山を作って、戦車が来たら行き止まりだと言って、
だけど戦車なんてそんなものも乗り越えるでしょ?


来間島・山砲の陣



艦砲射撃があって、畑にいて、近くの松の木に隠れてから、
大きい弟と小さい弟、逃げたさ。

小さい弟はおんぶしてさ。
そしたら、Y(弟の名前)は「ウムッシ ウムッシ(面白い面白い)と頭をばたつかせて、
敵の飛行機が飛んでいるのを見てそんなにしていたよ。

昔からYはそんな子供よ。
何がそんなに面白かと。
自分はこれをばおぶって必死だのに。


来間島・ツフサガアブ



いつものガマは遠いから、畑から近いガマに逃げたよ。
ガマ(ウスウルスンツ)に逃げたら、そこには2班の人がいて、
そこは二班の人のガマだからよ。

どーんどーんと大砲が飛んで、怖くて
「アガイアガイ」と叫んだら、
「何で、どこの子が来て泣いてるか」と叱られたさ。


古老らからの話はこちらから
過去記事もお時間があれば読んでみてください。
























来間島の古老から聞いた話

学生時代の苦労話


来間島の山では、さるかが実りだしています。

赤く色つく実に触れた時にふと、思い出した昔話。

語り手は80代男性です。


さるかのみ



アダンの縄が100俵でだいたい15キロよ。
それが5円、ノートを買えるかぐらい。

私の母はね、それを三重に束ねて、頭にのせて、

久松に持っていて売って、○○ヤー(=屋号)のSが船員であったから、それに頼んだよ。

だけど、ぜ~んぶ食べてしまって、母はずいぶん悔しがっていたよ。

アダンの縄


高校時代の話よ。

自分は自炊していたよ。
ううん、下宿じゃなくて自炊。

サルカギーの根っこを船で送ってもらうわけ
自炊のためによ

そうそれが燃料になるから

パイナガマ?
パイナガマにはサルカギィはなかったねえ

パイナガマのアダンの実は小さくて、ずんぐりしているんだよ

あの木は編みにくいさあね。

アダンの木

当時の高校生は、自分でまきをくべ、調理していたのですね。
母が息子を思い、サルカギィを採り、船に乗せ、送る。
息子はサルカギィを火にくべながら母を思う。

そんな時代。

今から約65年前の話です。

プロフィール
来間島大学まなびやー
来間島大学まなびやー
沖縄県の宮古島と橋で繋がる離島・来間島で活動するNPO法人来間島大学まなびやーです。
伝統を受け継ぐこと、誰もが住みよい島づくり、地域力・来間島力をあげることを目指し、
島ぐるみで地域おこしに取り組んでいます。

てぃーだイチオシ
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 1人
QRコード
QRCODE
< 2024年12月 >
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31